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どうする家康「三方ヶ原の戦い」

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三方ヶ原合戦

5月5日松本潤さんが浜松でパレードを行いました。

5月7日放送NHK大河ドラマどうする家康は三方ヶ原*1の戦い(徳川家康VS武田信玄)でした。

三方ヶ原の戦い前

1572年10月3日武田信玄甲府を出発し、10月10日遠江国(浜松)入り。

信玄の本隊駿河国(静岡市)から遠江国(浜松市)へ西進。

武田軍武田信玄
風の如く進む武田軍【風林火山】

徳川軍の高天神城(静岡県掛川市)城主の小笠原氏助が降伏する。

高天神城どうする家康
高天神城の次は見附城(磐田市)を攻められる。

一方、武田の別働隊(山県昌景・秋山虎繁ら)は、信州伊那から遠江に侵入して本隊と合流し、二俣城(静岡県浜松市)を攻めようとしました。

信玄は1572年11月上旬には二俣城を攻めます。

城には徳川軍の中根正照と青木又四郎が籠もっていました。

信玄は二俣城を一気に攻め落とそうとしたが、武田四天王の1人である山県昌景と、信虎の代から仕える重臣の馬場信春の意見に従って攻めることにしました。

二俣城二俣城
山県昌景と馬場信春が二俣城の周囲を回った上で、
「この城の土塁は高く、一気に攻め落とすことはできません。竹束を持って攻め寄せ、水源を断つならば、すぐに落城するでしょう」と助言

策士、武田信玄

遠江に侵攻し、東美濃(岐阜)にも手を伸ばす信玄に、織田信長は激怒。

上杉謙信宛ての書状で、信玄の行いを「前代未聞」「無道」「侍の義理を知らない」「遺恨は尽きることはない」「国内の人々の嘲りを顧みないもの」「未来永劫、信玄と誼を通じることはない」と切り捨てているそうです(1572年11月20日)

信玄は1日前の1572年11月19日付の文書に「信長が家康に3000余りの加勢を行った」と書いていて巧みに情報収集を行い、相手の動きを察知していたそうです。

二俣城を攻略後、武田軍は南下。

すぐさま浜松城に向かってくると思われたが、家康たちが籠城する浜松城を目の前にすると、武田軍は急に方向を西へと変えて、浜松城の前を素通りしてしまう。

三方ヶ原の戦い 三方ヶ原の戦い 三方ヶ原の戦い三方ヶ原の戦い

どうする家康?家康が戦うことを決めた理由

家康は武田軍が浜松城に迫っているのを見て、武田軍と戦う考えを周囲に告げます。

ところが、徳川の宿老たちは出撃を止めようとしました。

家康はそれでも「兵数が少ないのは仕方がない。敵の大軍が自らの屋敷の裏口を踏み破り通ろうとしているのに、家に籠もり、咎めない者があろうか。負けたら、負けたときのことだ。ともかく、戦をしなければならない。戦は多勢無勢で決まるわけではない。天運による」と言い、出陣します。

松本潤松潤
戦は多勢無勢で決まるわけではない!天が決めるんじゃー!

他にも堀江城(浜松市西区舘山寺町)を落とされ、浜名湖水運が奪われると困るので出陣したという説もあるそうです。

三方ヶ原の戦いが始まる

武田信玄は三方ヶ原(浜松市北区三方原町)で家康を待ち構えていました。

三方ヶ原の戦いは1573年1月25日午後4時頃から始まり、2時間ほど続いたとされるが、家康はその生涯で大きな敗戦を経験します。

魚鱗の陣で徳川軍を待ち構えていた武田軍

武田軍の三方ヶ原までの道のり。欠下は浜松市東区有玉西町。
市野*2も昔からある地名なのか。
祝田の崖道は浜松市北区細江町中川。

三方ヶ原の戦いで負けた姿を描かせた「しかみ像」

雑感

三方ヶ原の戦いは昔から言われていましたが、ここまでフィーチャーされたことはありませんでした。

実際にこの浜松市にいろいろ史跡が残っているのでこうやって地名などを見ると興味がすごく湧きます。

武田軍は岐阜や奥三河の豪族に策略をして降伏させたり、情報収集をしっかり行ったり、二俣城や浜松城をすぐには攻めなかったりとかなりの策士だと思いました。

本多忠勝のこのマスクかっこいいね。

本多忠勝

本多忠勝は徳川家臣最強の武将と言われ、三方ヶ原の戦いでも武田四天王の1人山県昌景に勝っているみたい。

俺も浜松から武田軍がいた甲斐と信濃にこのマスクを付けて山を攻めるかなw(ツーリング)

参考

↑わかりやすい!!

*1:浜松市北区三方原町

*2:浜松最大のイオンモールがあります。