LIVE IN THE MOMENT

俺の記録は蓄積されるとやがて歴史になる

【書評】法律の使い方 柴田孝之

チャンネル登録してみよう

法律の使い方by柴田孝之

予備校講師・弁護士の柴田孝之が書いた「法律の使い方」という本を読みました。

印象に残ったこと

  • 法律家として要求される能力は常識的な判断力と法律からそのような結論が導かれるような理論構成をする能力。

  • 法律の世界では条件を法律要件、結果が法律効果の発生という。要件、効果ということが普通。

  • 条件に当たる事実を探し、あれば効果発生で答えが出てくる。法律というのは公式。事実という数字を当てはめて答えを出す。法律要件にあたる事実があるかどうかを事件に照らして判断することをあてはめという。要件事実にあたる事実があれば効果発生。具体的事実を訴訟では主要事実という。あてはめを正確にするにはたくさんの事例を覚える。

  • 要件事実の有無を判断する決め手はその法律が作られた理由(立法趣旨)。

  • 事件処理のために必要な作業は請求の確認(民法、商法だったら相手に何を請求するのか、刑法ならば事実が特定の犯罪になるか、憲法ならば国の行為が違憲ではないか)、条文の検索、あてはめ。

  • 法学答案の書き方。問題文の事情→請求→法的根拠⇒問題提起→論証→規範定立⇒あてはめ→結論

  • ある解釈を導く理由のことを法律構成という。法律構成には判例と学説がある。条文が不完全で解釈のポイントとなるところ、意見が分かれるところを論点という。

  • 解釈は事件処理の際に、法文のままではうまく当てはめができないと言う場合にやむを得ずするもの。解釈を乱用してはいけない。

  • 法律による事件解決の流れ。当事者の請求が何か→根拠となる法律を探す→法律がわかったら要件を確認。ここで要件が不明確な場合、結論が不当なものになりそうな時に限って法律の解釈をする。その前提として論点を指摘する。→要件を明らかにしたらあてはめ。→要件があったら効果が発生。

  • 訴えた人は適切な法律を探し、その要件事実を証明することで、自分の権利を証明することができる。裁判所がどういう事実を認定するかによって結論が決まる。訴訟で当事者が特に力を入れるべきなのは要件事実があることの証明。良い弁護士は依頼人に有利なように裁判官に事実を認定させるのがうまい。 ある条文を適用し、結論が不当になる場合は、その条文の適用範囲を限定すればよい。具体的には条文にない要件を増やす。

  • 「結論から考えろ」「要件を増やせ」

  • 説得力を増すには形式的理由(条文を根拠とした理由付け)、許容性を明らかにする。「出したい結論につながる同趣旨の条文を探せ」

  • 法律による事件処理で正しい結論を導くには社会経験・知識とその分析、目の前の事実への応用という過程を通じて判断を下すことが要求される。したがって単に法律を勉強しているだけでは法律を正しく使いこなすことはできない。

  • 暗記に頼ると思考が止まる。有名判例によって思考や判断が狂う。

  • 犯罪が成立するかどうかを判断するには行為者の意図ではなく発生した事実から犯罪の成否を検討すべき。刑法の問題を解くのに直感に頼ると失敗する。刑法が犯罪だとしている事実が本当にあるかという観点から考える。

  • 法律の内容として定義、趣旨、要件、効果をしっかり学ぶ必要がある。さらに条文には書いてないが、解釈で必要とされる要件、要件の解釈も覚えないといけない。

  • 解釈論を学ぶにあたってまず覚えるべきは問題の所在(なぜそれが論点になるか)。次に学説・判例などの法律構成。

  • 条文の内容や論点を学ぶ場合に一緒に覚えないといけないのはその条文が適用されたり、問題点が導かれる典型的な事例。事例に加えて事例ごとに導く結論も覚える。

  • 荻生徂徠はわからないことが気になって先に進めない人は学問をする資格が無いと言っている。

雑感

結構目からウロコだった。法律を学ぶ姿勢が変わる気がした。

荻生徂徠

同時並行でこの本を読んでいて、ちょうど荻生徂徠が出てきたのでメモ。

  • 孔子孟子への回帰という形で生まれた日本独自の学派である古学に分類される。古学は実践を重視した。

  • 徂徠は古文辞学を創設した。徂徠にとって儒学とは天下を安泰にするための経世済民の学だった。

  • 徂徠は道徳的な修養に偏る従来の儒学、とりわけ朱子学を批判した。支配者が徳を身に着けたところで、現実的な政治力がなければ民は平和に暮らせないと考えた。徂徠は古典に直接触れて先王の業績を読み取り、それを政治の具体策として活かすべきであると主張した。

  • 学問によって気質を変え、聖人と等しい状態に至ろうとするけれど、それでは米とも豆ともつかぬものになるだけで何の役にも立たない、米は米として、豆は豆として役に立つようにせよと考えた。人の生得的能力は個性的なものであって、それぞれを充実・発展させて適切に配置するならば、社会全体は有機的に調和したものになる。

道徳や徳を積んでも確かに意味がない。これは同感だ。

思想とか哲学も学ぶといいかもしれないと思った。